長岡百穴(栃木県宇都宮市)

宇都宮環状線を走行していると、突然車窓に飛び込んでくる無数の穴があいた謎の岩山。
これは「長岡百穴古墳」という古墳で、古墳時代後期に盛んに作られるようになった「群集墳」と呼ばれるタイプのもの。いわば古代人の共同墓地である。(以前に当ブログで紹介した吉見百穴と同タイプ)

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百穴と名前がついているが現在残っているのは52基で、以前はもっと沢山あったようだ。無数の穴のあいたこの不思議な岩山は、環状線からもよく見える立地条件でかなりインパクトある風景。
石室内部をのぞくと、吉見百穴同様「棺座」があって、シングルルーム的なつくりになっていた。

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さてこちらの長岡百穴、古くから人々に知られていたようで、上の写真のように当時そのままの雰囲気を残してる石室はごくわずかで、既に中世の頃には石室を転用して「ほこら」として使われていたようだ。現在も「百穴観音堂」というお堂が建てられており、石室の大部分には石仏が彫られている。
古墳の解説看板はたいていこれらの後世の造形物については重要視しておらず、やはりここでもこれらの石仏に関してはほぼスルーなのだが、こちらも巡礼空間としてなんだか興味をひかれたのでじっくり見てみることにした。

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馬頭観音と不動明王の石仏。
その他の石仏は聖観音、千手観音、如意輪観音などの観音系の石仏が大多数をしめており、やはり西国坂東秩父の百観音霊場の写し霊場として作られたものかもしれない。近くには同じく石仏で有名な坂東札所の大谷寺もあるし。

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岩をそのまま彫りぬいて作った味のある手水鉢。

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岩山には上段下段の石室を結ぶように石の階段が作られ、きちんと参拝順路のようになっている。石室内には、石板(寺の名前か?)がはめ込まれていたような跡や柱があったような跡があり、側面の壁に意図的に穴をあけたような箇所も見られる。胎内めぐりなどを意識した空間作りになっていたのかもしれない。

古より先人たちの眠る聖地としてこの地がふさわしいと思ったのか、それともな~んかよくわからんけど近所に丁度いい穴があったわ~ってことなのかはしらないが、後世に観音霊場めぐりが流行し、百観音の写し霊場を作ろうと思った時、身近にあったこの百穴が思いつくのは自然の流れだろう。私はやはり古来より神聖な場所として、この地があがめられていたから選ばれたのではないかと思う。

古代ロマンを感じるだけでなく、巡礼空間の一形態としても興味深いスポットである。

(2008年4月)

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宇都宮の謎のツツジ山(栃木県宇都宮市)

宇都宮市にある「栃木県総合運動公園」。野球場や陸上競技場、サッカー場、テニスコートなどの各種スポーツ施設があり、栃木のスポーツ文化の中心的存在。また園内には遊園地や水生植物園もあり、市民の憩いの場となっている。

さてその公園に隣接して、立派な「ツツジ山」がある。

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ツツジ山はよく手入れが行き届いていて、実に見事な植栽ぶり。
訪れた時は丁度見頃の時期で、ツツジやサツキが咲き誇り、鮮やかなグラデーションを描いていた。う~ん、綺麗じゃあ~~~。
これだけ見事なツツジ山で入園も無料といううれしさ。

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・・・ところでこのツツジ山にはおそるべき謎が隠されていた。その真の正体を知ると、さらに驚くことになる。

このツツジ山の正体はこれだ~~!!



ジャ――――ン!

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前方後円墳~~~!!!!

う~む。 よく見りゃたしかに前方後円してるし・・・
この古墳は「塚山古墳」といい、この周辺に点在する古墳群の中でも一番大きな主墳で全長95メートル、5世紀後半に造られたものといわれている。

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墳丘にも登ることができ、その上から見れば花々によって形作られた前方後円墳のラインがくっきりとわかり、さらにここが古墳であることが実感できる。

前方部。

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後円部。

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そして墳丘上から下を見たところ。
う~ん、見事な手入れっぷりだ・・・・。

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後円部の墳上は一段と鮮やかな赤いツツジで装飾されていた。中心には緑の丸い植木をワンポイントで配して実にデザイン的。職人のこだわりを感じられる。

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見事なツツジをうっとりと見ていると思わず古墳であることを忘れてしまうが、通路にはこんなキャラの描かれた看板が。やっぱり古墳なんだよなあ~、ココ。

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最近は古墳を復元整備し、憩いの場として開放した古墳公園が増えてきたが、ここまで見事に植栽をし、ド派手でフレンドリーな古墳は見たことない~~~っ!!
実はこの塚山古墳は個人の所有古墳で、訪れる人に楽しんでもらおうとツツジを植えて整備してくださってるとのこと。う~んありがたや。

古墳はマニアでもないかぎりなかなか訪れる人もおらず寂しいものだが、こうしてツツジ山として親しまれているのはなんだかうれしい。
きっと古墳に眠る古代のみなさんも楽しんでくれているよね!

(2008年4月)

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七輿山古墳と五百羅漢(群馬県藤岡市)

数多くの古墳を有する古墳王国・群馬県。今までもいくつかの古墳を紹介してきたが(こちら参照)、今回紹介する「七輿山古墳」は全長146メートルの東日本では有数の大きさを誇る巨大古墳。造られたのは6世紀くらいといわれ、古墳時代としては後期にあたるが、全体的に規模縮小傾向が進む古墳時代後期において、これだけのスケールの古墳は素晴らしい。

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ひさびさに訪れたがやはりホレボレする見事な大きさ。古墳に隣接して「七輿の門」という資料館的な施設もできていた。入口にあるハニワのモザイク画がカワイイ。

ちなみに七輿山の名前は奈良時代にこの周辺を治めていた「羊太夫」という豪族が、朝廷によって謀反の疑いがあると無実の罪で討伐され、その羊太夫の七人の娘(あるいは七人の妻)が輿に乗ってこの地まで逃がれて自害し果て、ここに葬られたという伝説に由来している。
実際は古墳の造立時期と羊太夫の時代はずれておりあくまでも伝説なのであるが、この周辺地域には羊太夫伝説が数多く残り、地元の英雄であった羊太夫にこの大きな古墳の姿を重ねあわせたのだろう。

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さて七輿山古墳には古墳自体の他、もう一つ気になるものが存在する。それは五百羅漢
七輿山古墳の説明板では全くスルーされてしまっているのだが、墳上に五百羅漢の石像が並んでいるのである。この日は午前中に五百羅漢の寺定福院を訪問し、ふと以前ここで見た五百羅漢のことを思い出したので、ひさびさに訪ねてみたのである。

七輿山の五百羅漢はこんな姿である・・・。

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・・・・・。そう、みな頭をもがれた見るも無惨な姿である。無論風化によるものではなく、意識的に何者かが破壊したもの・・・。
ある者は説法中、ある者は座禅中、ある者は出かけようと草履の紐を結んだ瞬間で時が止まり、喜怒哀楽さまざまな表情で語りかけてくれていたはずの彼らは、今はその顔を失い、ずっと沈黙を続けている。
先ほど目にしたばかりの「定福院」の楽しそうな笑顔に満ち溢れた羅漢たちの姿を思い出すと、今目の前で座っているこの羅漢たちの姿にはとても胸をしめつけられる思いだ。

これは明治期の急激な改革の下、行なわれた「廃仏毀釈」の爪あと。
時の明治政府は神道を中心とした新しい国造りを促進するため、「神仏分離令」を発布し、全国各地でこのように寺院や仏像が破壊されたのである。この七輿山古墳の羅漢たちも一体一体全ての首が切断され、まとめて古墳の堀の中に投げ捨てられたという。石像そのものを全て破壊してしまうのではなく、あえて首を切断した体部を残すことによって、おそらく人々への見せしめにしたのであろう。新しい世を作るためという大義名分はあったのだろうが、とても悲しい出来事である。

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残された体を見ると羅漢たちはそれぞれ一体一体の個性を感じる見事なもので、当時の姿をぜひ見てみたかった。中には羅漢の名前が彫られた石碑もいくつかあり、以前はそれぞれの像の横にこうして名称を現した石碑があったのだろう。現在は羅漢たちはこうして一箇所に集めてあるが、もしかするとこの墳丘自体を羅漢たちが釈迦の説法を聞きに集まったという「霊鷲山」に見立てて、墳丘全体に配置されていたのかもしれない。(ちなみに寄居町の少林寺の裏山にも五百羅漢があり、そちらもこうした見立てが感じられる)

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「霊鷲山」に見立てていた根拠として、墳丘上には釈迦三尊の石仏もある。勿論こちらも首のない無惨な姿・・・。
頭を失った主人を乗せ、象もとってもせつなそうな表情・・・。

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中には頭部が発見され、元の姿に修復された羅漢もいる。
昔はみなこのように微笑んでいたのだ・・・。

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羅漢像の間を歩いていたら、一体の羅漢の頭を見つけた。
どうしても彼の体を見つけてあげたくて、一体一体見てまわったが、ついに該当する体は見つけることはできなかった。ごめん・・・。
体部も破壊されてしまっている像もあるので多分そのうちの一つだったのかもしれない。いつの日か無事に修復されることを願ってその場を後にした。

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実は七輿山古墳には20年ぶりくらいの訪問となる。小学生の頃から古墳好きだった私は、休日の度にひたすら自転車をこいで、埼玉、群馬、栃木など北関東の古墳を訪ねてまわっていた。(ほんと我ながらカワリモノだこと・・・)そしてある日、群馬の古墳界の大物スターであるこの七輿山古墳に来た時、墳上にズラリと並ぶこの「首なし羅漢像」に遭遇し、あまりの衝撃的光景に卒倒しそうになりながら、ほうほうの体で帰ったことがある。まさに少年時代は恐怖!もう恐怖の一言しかなかった。それ以来私にとってトラウマ的スポットであった。

しかしあれから月日が経ち、こうして各地の古寺や史跡を巡っているうちに考えも変わってきたのか、ひさびさに対面した羅漢たちの姿はひじょうに心をうち、感動的な再会であった。ああ、来てみて本当によかった。

そして羅漢たちの姿は遠い昔の羊太夫の伝説と重なって見えてくる。この地を舞台にして起きた二度の悲劇。羊太夫一族の最期と五百羅漢たちの受難・・・。
いずれも理不尽な暴挙による無実の悲劇である。

再びそんなことが繰り返されることが無いよう、彼らは無言で伝えてくれている。

(2007年2月)

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土肥金山(静岡県伊豆市)

土肥金山は佐渡に次ぐ、日本第二の産出量を誇った金山。室町時代から昭和40年代まで採掘され、現在は観光鉱山として公開されている。

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さて観光鉱山といえば、つきものなのは人形による往時の再現。こちらでももちろん人形のみなさん、大活躍しております。
うひゃああ~~!裸!鉢巻!褌!熱気むんむんの漢の世界~~~!

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金山では夫婦で働く人たちも多かったとか。せっせと仕事中。
お父さん、がんばって!

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「あ~、オラのこと呼んだかね~~~」ぐい~~ん。
首曲がりすぎ!怖いって~~~っ!

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土肥といえば温泉も有名。その温泉も金の採掘時に沸いたものだとか。
というわけで金山内にも温泉入浴施設完備・・・。うっひひ、おぬしも悪よのう~~。

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男たちもひとっ風呂あびて一服中。つーか下のオッサン、リラックスしすぎ。もう健康ランドだろ、これ!

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土肥金山のもう一つの楽しみは金塊タッチコーナー。本物の金のインゴッドに触ることができるのだ~~。

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重さ12.5キロ。う~んずっしり~~。

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ぐぐぐ、ぐ~~~~~。

・・・・む、無理でした。(おいっ!)

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そしてさらにスゴイぜ!250キロの大金塊~~~!

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問答無用のド迫力!す、すごすぎる~~~!
ああ至福・・・。

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親子で顔出し・・・。
後ろには御用金を運ぶ人形つき。ちょっと豪華かも。

(2007年6月)

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風車の弥七の墓(茨城県常陸大宮市)

えーと内藤剛志がなんと二代目「風車の弥七」に決まったそうで。
どちらかというと「口車の弥七」って気も・・・。(おい)

というわけで、風車の弥七復活記念!約10年ぶりに常陸大宮市にある「風車の弥七の墓」を再訪問。(前回はこちら参照)
あれから時代劇「水戸黄門」も代替わりを繰り返し、弥七が一行から姿を消して久しいが(まあ夕方に再放送バンバンやってるけど・・・)、こちらでは弥七人気はいまだ健在。案内看板もより弥七度がアップしてるぞ~!

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弥七の墓の石標も石作りにリニューアル。隣の「お新の墓」も立派な石標が立てられていた。前回来た時はなんとな~くボカしたニュアンスだったが、奥さんの名前、もうお新で確定のようで・・・。

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墓前には供えられた風車がいっぱい。中には地元の子供たちによるユニークな作品もあったりしてほほえましい。

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そして弥七の墓の隣には、前回来た時はいなかった謎のデカい坊さんが・・・。あんたいったい誰じゃ~!?ハッ、もしかして「鉄羅漢玄竜」!弥七大ピーンチ!(またマニアックなネタを・・・)
説明によると、このお坊さんは常不軽菩薩といい、釈迦如来の前世の姿とのこと。こりゃ失礼しました~。

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弥七の墓の近くには「弥七とお新の住居跡」まである。
おぉ!田毎庵!(違うって)

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住居跡の向い側を見てみると、なんと弥七とお新の新居が!
壁にはトレードマークの風車をあしらってオッシャレ~。

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と思いきや、実は公衆トイレ・・・、ズコッ。

そしてさらに入口をよーく見てみれば・・・、

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・・・・・・・・。もう隣は言うまでもありませんね。

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風車の弥七、フォーエバ―――ッ!!

(2007年2月)

楊貴妃の墓(山口県長門市)

キリストモーゼに続く「あの人も日本に来ていた!」シリーズ第3弾!今度はなんと「楊貴妃」だ~~!

楊貴妃といえば、絶世の美女として知られ、唐の玄宗皇帝がその美貌の虜になり国政をおろそかにし、彼女のために贅沢の限りをつくし、あわや国を滅亡寸前にまで追いやった「傾国の美女」である。そしてその最期は反乱軍によって処刑されたといわれている。

しかーし!実は楊貴妃は密かに唐を脱出し、日本へと辿りついていたいうのだ。それが長門市油谷の「楊貴妃の里」。二尊院という寺に楊貴妃の墓があり、中国風にディスプレイされた公園には楊貴妃の像が立っている。

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ジャーン!ここが玄宗と楊貴妃が愛をはぐくんだ興慶宮!
・・・って、ちょっと無理があるか。ちなみに左奥にも中国風の公衆トイレがあり。

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楊貴妃の墓はとくにチャイニーズな感じではなく、ごくフツーの古い石塔でした。看板なかったらわからないかも、うーむ。でも目の前には青い海が広がり、見晴らしはとっても良かったですよ。きっと楊貴妃も遠い海の向こうの祖国を静かに見つめているのであろう。

お地蔵さんはちょっぴりチャイニーズしてました。

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楊貴妃の里を走るその名も「楊貴妃ロマンロード」。
「ロマン」って言葉、この手のスポットではなんだかもうすっかりおなじみになりつつあるような・・・。

(2006年9月)

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モーゼの墓(石川県宝達志水町)

以前に青森のキリストの墓を紹介したが、今回はなんとモーゼの墓。モーゼも日本に来ていた~~!?
ちなみにモーゼといえば、私の愛読書の「ドラえもん」の道具に「モーゼステッキ」「十戒石板」となんと二つもモーゼの話が元ネタなのがありますね。とりあえずこちらを読んできたので事前学習もバッチリだ。(おい)

さてモーゼの墓があるのは石川県宝達志水町の宝達山。一帯は「伝説の森 モーゼパーク」として整備され、庭園もそれっぽい感じの作りになっている。

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園内案内図。えーとこちらはモーゼなんですかねえ・・・?
なんだかドリフ大爆笑の「とんでもねえあたしゃ神様だよ」にしか見えませんけど・・・。

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モーゼの墓はここからさらに山道を登った山中にある。山道の名前は「ロマンの小路」。ロマンですよ、ロマン。もうこの名前にこの石川のモーゼ伝説の全てが集約されているような・・・。

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山道を歩くこと数分。モーゼの墓へと到着。
三ツ子塚という三つの円墳がモーゼとその一族の墓だということだ。この地の伝説によれば、モーゼはエジプトを脱出した後、この宝達山までやって来て十戒を授かったとのことである・・・。

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個人的にはこちらにも注目。おぉ!末森城!
末森城とは同じく私の愛読書の「花の慶次」に出てくる(えーと、愛読書が漫画ばっかですが、そこはスルーしといてください・・・)、ファンにはもうおなじみの前田利家と佐々成政との戦さの舞台となったところ。末森城もこのすぐ近くにあるんですね。あの話は面白かったなあ~。盟友の奥村助右衛門をはじめ、村井若水、陽水親子、敵の佐々成政との漢たちの熱いやり取り!そしてなんといっても慶次と助右衛門の小便鉄砲がもう痛快!!
・・・って、モーゼの話はいったいどうした~~!?

だがそれがいい。(←これがオチかよ!)

(2006年8月)

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勝鬨橋(東京都中央区)

築地市場の近くにかかる勝鬨橋。
水上バスで何回か下をくぐったことはあるものの実際に橋を渡るのは初めてだ。

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勝鬨橋の名前を有名にしているのは、この橋が可動橋であること。橋の中央部分が開閉し、船を通すことができるようになっている。残念ながら現在は開かずの橋。
勝鬨橋が完成したのは1940年、以来30年の間稼働し続けたが、次第に開閉の需要が無くなり(通航船は少なくなっていき、逆に通行車はどんどん増えたので)、1970年についに開かずの橋となったのである。

橋の欄干に当時の様子を描いた図があったので、こちらを見てもらえばだいたいのイメージはわかると思う。

ゴゴゴ・・・。

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パカッ。

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現在はもう開くことはないが、当時の名残はまだいくつか残っている。

ここが開閉した部分。現在は橋上は鉄板で補強されているが、横から見るとかみ合わせ具合がよくわかる。

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可動部分の両端に運転室も残っている。

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運転室の下には信号が。開閉前にはこの信号で知らせたのだろう。役目を終え、今は静かに目を閉じて眠っているかのようだ。

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橋のたもとに「かちどき橋の資料館」があり、当時使われていた機械や当時の写真、復元模型などが展示されている。
こちらの模型、橋が開くのはもちろん、開閉までの行程もわかりやすく再現されてて、信号が点灯したり、当時橋の上を運行していた都電まで走ったりと芸が細かい!うーんマニアック。

(2006年2月)

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尖石縄文考古館・中ッ原縄文公園(長野県茅野市)

国宝土偶「縄文のビーナス」(棚畑遺跡出土)で知られる茅野市。市内のあちこちから縄文時代の遺跡が発掘され、膨大な数の土器土偶が出土している。とくに有名なのは国の特別史跡にも指定されている尖石遺跡で、この遺跡発掘によって縄文時代にも集落があったことが初めて確認された記念すべき遺跡である。現在は遺跡公園として整備され、尖石縄文考古館では縄文のビーナスをはじめとする縄文時代の土器土偶が一堂に展示されている。ショップでは土偶グッズも充実。まさに土偶ファン垂涎のスポットである。

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こんなキャラクターも。「ビーナちゃん」カワイイ~~。
さすが縄文のスーパーアイドル!

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そして尖石縄文考古館のもう一人の人気者が「仮面の女神」である。2000年に中ッ原遺跡より発掘されたこの土偶は三角形の仮面をつけたインパクトのある御方。まさに縄文時代のマスクヒーロー。今年国の重要文化財にも指定された現在メキメキと売り出し中のアイドル土偶である。

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こちらの中ッ原遺跡も現在遺跡公園として整備され、仮面の女神の出土時の再現模型や発掘された八本の柱跡が再現されている。もう完全にスター街道ばく進中!

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「縄文のビーナス」「仮面の女神」の二大土偶アイドルの豪華競演を見れるのは尖石縄文考古館だけ!土偶ファンは今すぐ茅野に急げ~~!!

(2006年8月)

皆神山ピラミッド(長野県長野市)

城下町の風情あふれる歴史の町、信州松代。その町外れに皆神山という山がある。まあ一見何の変哲もない山であるが、登り口にある看板に注目してもらいたい。

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「皆神神社 ピラミッド参道入口」・・・。
なんとこの皆神山、古代人の作った人工ピラミッドとのことだ。たしかに三角形の山だけど・・・、ピラミッドって~~~~!?

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とりあえず参道を上ってみる。くねくねとした細い山道をひたすら上っていくと、やがて皆神神社へと辿りつく。こちらもごく普通の神社のようだが、説明板を読んでみると、やはり皆神山は世界最大最古のピラミッドとあり、古代人が反重力パワーで岩を浮かして作ったとか、須佐之男命は科学者集団のユニット名だとか独自の説がズラズラと・・・。うーむ。

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まあ本当にここがピラミッドなのかどうかはわからないが、この地は昭和40年から数年間にわたって発生した松代群発地震の震源地であり(おそらくその頃からパワースポットとして注目されはじめたのだと思うが)、地震学地質学的にも重要なポイントであることは事実である。

(2006年8月)

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日本ロケット発祥記念之碑(秋田県由利本荘市)

国道7号で道川海岸を通りかかると、「日本ロケット発祥の地」の表示があったので寄ってみた。以前、ロケットの元祖として龍勢を紹介したが、こちらは現在みられる近代的なロケットが初めて打ち上げられた場所である。昭和30年8月6日、この地で国産発のペンシルロケットが発射された。
そしてこちらがその「日本ロケット発祥記念之碑」。中央にシンプルなデザインのロケットが彫刻されたちょっとユニークな石碑である。

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ちなみに第一号のロケットはペンシルロケットの名前通り、長さ23センチ、直径1.8センチの超小型サイズ。記念碑のデザインそのまんまの超シンプルロケットで、一歩間違えりゃ小学生の夏休みの自由研究かといった代物であったが、これが見事高度600メートルまで打ち上げ成功。これに勢いをつけた日本はロケット開発計画をどんどん押し進め、昭和36年に打ち上げられたカッパーロケットは全長12.5メートル、高度250キロメートルの堂々の宇宙空間まで達するロケットを完成させたのである。そして種子島に基地が移る昭和37年までこの地で八十数本ものロケットが打ち上げられたのである。
その後も世界4番目の人工衛星「おおすみ」を打ち上げたり、金星探査ロケット「おおとり」でR惑星に行ったり、シーボーズを宇宙の怪獣墓場に打ち込んだりと目覚しい発展をとげたのはみなさんも知るところですね・・・、あ、最後の二つは怪獣図鑑からのデータが混じってました、スイマセン。(おい)

現在の道川海岸は記念碑以外、なーんにもない砂浜が広がっているだけだが、かつては日本で一番宇宙に近い場所だった。宇宙への夢に情熱をかけた人々の熱い魂は今もまだ残っているような気がした。

(2006年6月)

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九戸城跡・岩谷観音堂(岩手県二戸市)

みちのくの古城、九戸城。現在は建物は失われ、草に覆われた城跡のみがひっそりと残る。実はこの地で戦国時代最後の合戦が行われたことをご存知だろうか。
歴史の教科書では豊臣秀吉の天下統一は小田原攻めで全て終了したかのように記述されている。「関東の北条氏を滅ぼし、東北の伊達政宗は参陣して帰属し、これにて天下統一が成し遂げられた」といった具合にだ。しかし実はそれで終わったわけではなかったのである。

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九戸城は15世紀に、この地の有力氏族の一つ、九戸氏によって築城され、代々この地を治めてきた。そして最後の城主九戸政実は領民の信頼も厚く、武門にも秀でた人物であった。しかし時代は、政実に恐るべき悲劇をもたらすのである。
時は豊臣秀吉による天下統一へと動いていた。この地のもう一つの有力氏族、南部氏の当主南部信直は、時流を見極め小田原の秀吉の下へと参陣し、この地を治める「本領安堵」の約束をとりつけてしまうのである。つまり、いつのまにかこの地は南部氏の領地と公認され、政実は敵対勢力とされてしまったのである。そんなことは無論納得いくはずはなく、政実は五千人の兵をもって挙兵。しかし対する南部側には強大な秀吉軍六万の後押しがあり、全く勝ち目のない戦いであった。最後は勝てぬと悟った政実は、秀吉軍の浅野長政の「降伏すれば女子供や家来の命を助ける」という条件をのみ降伏したものの、約束は裏切られ、一族家臣全員皆殺しにされたという・・・。

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そしてこの地は南部氏のものとなった。九戸城は「福岡城」と改名され、南部氏の居城となった。しかし信直の次の利直の時代にはもうこの地から盛岡へと居城を移しているのである。あくまでも領民の心は九戸氏を慕い続け、南部氏はそれを痛いほどに感じ、とてもここに居続けることはできなかったのだろう。現在の城跡も正確には南部氏が九戸城の跡に築城した福岡城の跡なのであるが、誰も福岡城と呼ぶものはいないそうだ。

展示室ではパネルやビデオで九戸城の歴史と政実について解説しているのでぜひご覧になっていただきたい。九戸城への思い入れがひしひしと伝わるかなり熱い内容ですよ。

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九戸城の北西にある岩谷観音堂は、断崖の洞窟にめりこんでいる珍しいスタイルのお堂。対岸から赤い橋が掛けられている。奥州糠部三十三観音の一つでもある。

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そして境内の片隅に「千補陀堂」の石碑が立っている。千補陀堂は現在は洪水で流されてしまったそうだが、九戸城の戦没者を密かにまつったお堂だったそうだ。南部氏の支配の下でもこうして目をかいくぐり、人々は政実への思慕の念をつのらせていたのである。

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政実にもっと時流を見抜く力があったらこの悲劇は起こらなかったかもしれない。不器用・・・、不器用すぎる生き方である。
しかし最後まで一人の武士、いや一人の人間として、男の意地を通した政実の生き様には何か心魅かれるものがある。

(2006年6月)

大湯ストーンサークル(秋田県鹿角市)

大湯ストーンサークルは縄文時代の祭祀遺跡。円形に石が配置された造形は実に神秘的で、子供の時読んだ本では「これは宇宙人へのメッセージだ!」などとよく書かれていたが、それもなんとなく思わせてしまう光景である。まだ何のために作られたかは正確にはわかってはいないようだが、この円形の石組みを中心にいくつかの祭壇のような建造物が立ち並んでおり(復元されている)、ここで何らかの儀式が行われていたようだ。

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この日はもう夕方だったので閉まっていたが、隣接して資料館の「大湯ストーンサークル館」や土産物店などもある。

こんな顔出しもあり。お父さんはなんとヒゲつきだ。
家族みんなでレッツ顔出し!

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ストーンサークルグッズ!
いったい何売ってるんだ!気になる~~!

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ストーンサークルに沈む夕日。
縄文の人々も同じ風景を見たのだろうか。

(2006年6月)

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古代の丘・土偶広場(山形県長井市)

長井市内をドライブ中、「古代の丘」という看板を見つけた。看板には土偶のイラストがあり、土偶ファンとしてはちょっと気になるところ。早速行ってみると長者屋敷遺跡という遺跡の竪穴式住居を再現したものやこの地域で発掘された土器などを展示した資料館などがあった。その時は資料館にやたら土偶のレプリカが置いてあるなー、と思っていたがそれほど気にはとめていなかった。そして展示を見終わり、さて帰ろうかと思ったら、さらにこんな看板が・・・。

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なぬっ!土偶広場!なんと奥に「土偶広場」なるものがあるらしい。
資料館の裏手に広い公園が広がっており、樹々の間から何かがいっぱい立っているのが見える。
ま、まさか、こ、こ、こっ、これは~~~!?

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出たー!土偶、土偶、土偶、土偶の群れ~~!
遮光器土偶に、ハート土偶に、みみずく土偶!その数ズラリと15体!まさにオール土偶大進撃~~~~!!

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日本全国の有名土偶が大スケールでズラリと立ち並ぶ。
様々なルックスやポーズをした土偶たち。もうとってもファッショナブル!とってもキュート!

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丘の中央でデーンとそびえるは、もちろん土偶界のアイドル「しゃこちゃん」!なんと2メートルほどの大きさ!すごすぎる~~!

まさに土偶パラダイス!!

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園内には竪穴式住居にも泊まれちゃうキャンプ場もあり。
泊まってみた~~い!

(2006年6月)

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保渡田八幡塚古墳・かみつけの里(群馬県高崎市)

高崎の北部にある保渡田古墳群。付近は整備されて「かみつけの里」公園になっている。
その中の八幡塚古墳は葺き石や埴輪を復元して往時の姿を再現している。

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なななななな、何だこりゃ~~!
古墳の上も下もどこを見ても、埴輪、はにわ、ハニワだらけ~~~!
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もう埴輪ファン悶絶のハニワ最終兵器じゃ~!
うひゃ、うひゃ、うひゃひゃひゃひゃ~~~~!!

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・・・・。は~、あまりの衝撃的な光景に思わず取り乱してしまったが、埴輪をじっくり見てみることにしよう。
こちらの埴輪も数多くの豊富な種類の埴輪が出土し、群像を形づくっている。祭礼の場面に狩りの場面にと様々な光景が繰り広げられ、古墳時代の人々の息吹が伝わってくるかのようだ。復元されたカラーリングも当時のファッションがわかって面白い。

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力士。カラーリングされたマワシがイカす!どすこーい!

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馬の行進。馬をひいてる人も横にいる。はいどー、はいどー。
列の一番後ろには鹿もいる。鹿もほんとよく特徴をとらえて作られている。

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こちらはニワトリと水鳥の行進。まさにハニワ版カルガモ親子!?

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何体か丸い頭に胴体だけの埴輪も並んでいる。なんだこりゃ。「人生ゲーム」のコマかよ!
これはどうやら破片だけは見つかったもののどのような姿をしていたかはわからなかった人たちらしい。いったいどんな姿をしていたんだろうね~。

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こちらは狩りの場面。イノシシを猟犬が追い込んで、弓矢で射っている。素朴な造形なのに、きちんと狩りの躍動感は表現されているからすごい。

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で、狩りの成果はどうかというと・・・、
ぎょーん!矢がきちんと刺さっている~~!しかも血たれてるし・・・。

まさに埴輪は古墳時代のスーパーリアルジオラマだ!

(2006年5月)

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大室古墳群・大室公園(群馬県前橋市)

大室古墳群は4つの前方後円墳を中心に点在する古墳群。現在は整備されて遺跡公園となっている。

園内に入ると出迎えるのはこのモニュメント。
バ―――――ン!土器&埴輪タワー!

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土器と埴輪のハイブリッド!驚異の古代要塞だ!
今回訪れた時は枯れてしまっていたが、本来は噴水になっていて、各所にほどこされた様々なギミックが楽しめるようだ。巨大船は荒波の中を勇猛に進み、埴輪は踊ってくれることだろう。水が流れているところをぜひ見てみたーい!!

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小二子古墳。大きさは38メートルと4つの中では一番小規模な前方後円墳だが、多くの埴輪が発掘されており、復元された埴輪で当時の様子を再現している。前方部には祭礼の人々、後円部に太刀などの副葬品の埴輪が配置されている。

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ズラリと並んだ埴輪たち。もう埴輪ファンにはたまらな~い!

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太刀や盾などの器材埴輪がぎっしり。デザインチックな円筒系の埴輪がニョキニョキ並ぶ様は、まるで古代のロケット基地だ。ハニワロケット発射~~!

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後二子古墳。こちらは石室が見学できる。

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中二子古墳。111メートルの大きさの大室古墳群最大の前方後円墳。周囲にはぐるっと二重の堀が掘られ、これも含めると170メートルにもなる壮大なスケール。

ん?土手の上に何かが並んでいるぞ?
近づいて見てみれば、どひゃ~~~!ハニワ大行進!!

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はるか向こうまでズラリと並ぶ埴輪、はにわ、ハニワ!
驚異のハニワロード!すごすぎ!!

(2006年5月)

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岩宿遺跡・岩宿の里(群馬県みどり市)

歴史の教科書でもおなじみの岩宿遺跡。1946年、この地で考古学者相沢忠洋によって旧石器時代の地層から打製石器が発見され、日本にも旧石器時代があったことが証明された記念すべき遺跡である。
現在は発掘した地層断面は岩宿ドームという施設に保存されて見学することができる。

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発掘した石器をしげしげと眺める相沢博士の像。
関係ないけど、昔「土曜ワイド劇場」で愛川欽也がやってた考古学者の相田博士ってこの人からとったのかなあ?あのシリーズはトリックがかなり強引で笑えて好きだったな~。

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岩宿遺跡についてもっと知りたいなら、岩宿博物館へ。発掘された石器や相沢博士について詳しく紹介している。
あとは岩宿遺跡以外にも世界の旧石器時代についても解説。マンモスの化石や石器の材料となる黒曜石などにタッチできる。とくに猿人、原人、旧人、新人のそれぞれの頭骨のレプリカを古いもの順に並び替えるコーナーがツボ。ちなみに今年の春に合併して「みどり市」になったようで記念展示をやっていた。(以前は笠懸町)

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周辺は「岩宿の里」として整備された公園になっている。
ハニワ君と恐竜君がお出迎え。でも二人とも岩宿遺跡とはあんま関係ないけどね・・・。

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「岩宿人の広場」には世界各地の旧石器時代の住居の模型がある。なかなか珍しいものが多く面白い。こちらはフランスのパンスヴァン遺跡の住居。

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そしてこれが極めつけ、ウクライナのメジリチ遺跡の住居。
なんとオールマンモス製!どひゃ~~!!

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385個のマンモスの骨を使用。この上に皮をかぶせて住居としていたらしい。
入口とかおもいっきり牙のついた頭をそのまま使ってアーチを作るという斬新さ!驚異のデザイナーズハウス!!

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もうどこを見ても、骨、ほね、ホネ――ッ!

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お腹がすいたら売店へ。
名物はその名も「マンモス焼」。

(2006年5月)

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八幡山古墳(埼玉県行田市)

以前紹介したさきたま風土記の丘の北に位置する八幡山古墳。
近くの沼を埋め立てるために墳丘の土が使われ、現在は石室が剥き出しの状態になっている。

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通常は古墳の石室は土に覆われて見ることはできないものだが、ここではじっくりとその石組みを堪能できる。デーンと横たわるその巨大な石組みはまるで「謎の巨石文明出現!」といった感じ。実にダイナミック!まさに「関東の石舞台」の名にふさわしい。

(2006年5月)

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野毛大塚古墳(東京都世田谷区)

田園調布からさらに多摩川を上流にいった世田谷の住宅街にある野毛大塚古墳。玉川野毛町公園の一角に復元整備されている。周囲には復元された円筒埴輪がズラリと並ぶ。

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形は前方後円墳の一種で方形部分が小さい「帆立貝式」と呼ばれる形。模型で見るとその形がよくわかる。そしてさらにこの古墳で特徴的なのはもう一つ「造出部」という小さな方形部分がくっついている点だ。

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造出部を上から見たところ。いったい何のために設けられたものだろう?

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注目すべきは造出部の周囲の円筒埴輪だけは上部がギザギザになっているところ。今までこういう円筒埴輪は見たことがない。説明板によると柵型埴輪と言うらしい。

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造出部や柵型埴輪がどのような役割を果たすのかとくに説明がないのでよくわからないが、あえてこうしてギザギザに尖らせているということは明らかに強い「立ち入り禁止」の意思を表示していると思う。つまりこの場は「立ち入ってはいけない場所」であり、何らかの目的のための重要な場所なのだろう。古墳が墓であることを考えれば、死者への供養の儀式のための場所だろうか。そしてこの場に入れるのは生と死の世界を司るシャーマンだけであり、柵は生の世界のものが入らぬように、死の世界のものが出てこないように、その意味をこめて設けたものではないだろうか。

(2006年5月)

多摩川台古墳群(東京都大田区)

田園調布といえば高級住宅地で超有名であるが、実は古代もここは憧れのスポット。古墳がズラリと立ち並ぶ一大古墳地帯で、王者たちは多摩川を一望するこの地にこぞって古墳を築いた。
亀甲山古墳、宝莱山古墳の二大前方後円墳を挟んで、八基の円墳がズラリと並び、現在は多摩川台公園として整備されて、古墳の周囲を巡る遊歩道が設けられている。前回紹介した多摩川浅間神社の古墳も近い。

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公園内には古墳展示室があり、当時の様子を再現した模型や出土品などが展示されている。
これが古代のセレブの皆様だ~~!

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復元された古墳。照明が明るくなったり暗くなったりして古墳の一日を再現。夕暮れ時のハニワはなんだかちょっと哀愁の味。断面図まであるのもなかなかユニーク。

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まさに「田園調布に家が立つ!」ならぬ「田園調布に墓が立つ!」。
昔も今も田園調布はステータスシンボルなのだ。

(2006年5月)

足柄之関(静岡県小山町)

神奈川と静岡の県境の足柄峠は、鎌倉時代に箱根道ができるまでは東国へのメインルートであり、古くはヤマトタケルがこの地で亡き妻を偲び、新羅三郎義光はこの地で笛を吹いた。平安時代には関所が設けられ、往来の人々を厳しく取り締まっていた。

足柄峠にさしかかると、出迎えてくれたのはやっぱりこの人。
ご存知、足柄山の金太郎!熊の表情がなかなかナイス。

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峠には復元された関所の門がある。この門自体、黒澤明の「乱」に使用されたセットだったとのことで黒澤ファンも必見である。

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個人的にはこの顔出し看板も見逃せない。なんと「山伏」顔出し。
まあ関所ということで安宅関とかをイメージしたのかもしれないが、どちらかといえば「水戸黄門」の敵の忍者の変装って感じも・・・。

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向かいには足柄山聖天がまつられている。浅草聖天、生駒聖天と「日本三体聖天尊」のひとつとのことだ。こちらの門前にも熊にまたがる金太郎の像がある。

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足柄峠を越えると、その名も「金太郎富士見ライン」に出る。

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金太郎富士見ラインを下ると、金太郎のふるさと小山町へと至る。
その途中にあった広場にもこんな顔出し看板が。やっぱり出ました!金太郎!
顔出し看板マニアはぜひ足柄山へ!

(2006年5月)

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大塚・歳勝土遺跡公園(神奈川県横浜市)

大塚・歳勝土遺跡は、集落跡の大塚遺跡と方形周溝墓群の歳勝土遺跡から成る弥生時代の村の遺跡。各地の弥生時代の遺跡公園によくあるように竪穴式住居や高床式倉庫などが復元され、弥生時代の集落の様子を再現している。

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そしてこの遺跡公園の特徴的なのは、環濠集落の様子を再現しているところだ。この遺跡では村の周囲に環濠を設けた集落跡が完全な状態で発掘されたのである。
弥生時代といえばやはり稲作、教科書の挿絵なんかでも和気藹々と農業にはげむ人々が描かれ、のどかな雰囲気さえする。しかし実際の弥生時代はもっとハード、隣の村の米を狙っては村同士でしょっちゅう戦争状態なのだ。ということで、村の周囲には環濠が掘られ、土塁と柵をめぐらして完全防備することになる。ここではそれらを再現しており、弥生時代のそうしたハードな側面がよくわかって面白い。

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子ども向けにも弥生時代の人々の暮らしを描いたマンガの説明板があるので、わかりやすいと思う。ちなみに登場キャラの名前は「ツヅキ」くんと「アオバ」ちゃんというストレートなネーミング。(ここ大塚・歳勝土遺跡公園があるのが横浜市都筑区、隣が青葉区である)

集落に隣接してあるのが方形周溝墓群。方形周溝墓とは弥生時代にみられる四角く土を盛った墓で、周囲に溝が掘られている。村の有力者を葬ったものとみられ、いわば古墳の原型ともいえよう。集落と墓地とが隣接しているのもこの遺跡の特徴である。

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方形周溝墓の四角く土を盛った中央に穴を掘って木棺を納めたそうで、その様子が模型で再現されているものもある。作り物とわかってても、ポツンと置かれた木棺はなんだか妙にリアルでちょっぴりホラー・・・。

(2006年4月)

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偕楽園(茨城県水戸市)

水戸といえば偕楽園。いまさら説明するまでもない横綱クラスの梅の名所である。
なんせ園内には約3000本、100品種の梅が咲き誇り、東門や御成門から入ると見渡すかぎり梅、梅、梅である。梅の季節だけ臨時開業する「偕楽園駅」まであるくらいだ。

今年も一面の花盛り。実に見事でした。

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と、まあこんな具合にどうしても梅に注目が集まりがちな偕楽園であるが、今回は偕楽園をちょっと違う角度から紹介してみたい。

まず表門。萱葺きのとても雰囲気のある建物。門をくぐると竹林と杉林が広がり、その間の小道を抜けて好文亭へと至る散策路になっている。とても静かで心が落ち着くコース。駅や駐車場からだとそのまま東門から入ってしまい、梅林だけを見て帰ってしまう人が多いが、ぜひこちらにも足をのばしてみて。

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好文亭は偕楽園の中心となる御殿。偕楽園を築造した水戸藩九代藩主徳川斉昭の別荘である。斉昭は皆で楽しむことをモットーとし「偕楽園」と名づけたそうで、ここで時折敬老会などを開催し、領内の老人を招いてもてなしをしたそうである。現在の「水戸黄門」のイメージには斉昭のこうした人柄も影響されているのかもしれない。ちなみに水戸黄門といえば徳川光圀が思い浮かぶが、黄門というのは水戸徳川家代々の役職名であり、斉昭も実は水戸黄門だったりするのである。
そして好文亭にはすごい仕掛けがあるのだ。好文亭は三階建てで、三階の一角には配膳室があり、そこから二階を突き抜けて一階まで四角く穴が開けられている。最初見た時何の穴なのかよくわからなかったが、よくみると上部に滑車があり下から物を引き上げられるようになっている。なんとこれは江戸時代の食事運搬用のエレベーターなのである。こんな時代からあったとは・・・、びっくり!

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そして千波湖を一望する見晴らしのよい場所に「仙奕台」がある。奕とは囲碁のことで、その通り石でできた碁板や将棋板が置かれている。今もくっきりとマス目が残っている。その横には琴石もある。斉昭はここで絶景と琴の音色を楽しみながら、囲碁や将棋を楽しんだのだろう。うーん、とっても風流。

(2006年3月)

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吉見百穴(埼玉県吉見町)

吉見百穴。その名の通り、岩山に無数の横穴が掘られている。なんとも不思議な光景。実際は倍以上の219個の穴があるそうだ。

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これは古墳時代の群集墳で、古代の共同墓地のようなもの。穴の入口の大きさは様々で子どもでないと入れないくらいのものもある。穴の中をのぞくとベット状の盛り上がったスペース(棺座)があり、そこに遺体を置いたそうだ。私が見た穴は棺座がひとつだったが、複数ある穴もあるそうだ。
穴の中に一際大きいものがあるが、これは戦時中の軍需工場の跡。

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発見当時は伝説の小人族コロボックル人の住居跡とも考えられていたらしい。何ともファンタジー。
でもこの不思議な風景を見ていると、そんな幻想をかきたてられるのもわかるような気もする。

(2006年2月)

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さきたま風土記の丘(埼玉県行田市)

行田市の南部に広がる広大な古墳公園、さきたま風土記の丘。
大小9基の古墳が並び、なかでも国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳、日本最大の円墳丸墓山古墳などは有名。

園内には「さきたま資料館」があり、国宝の鉄剣などの出土品が展示されている。鉄剣には金象嵌で文字が刻まれ、今もはっきり読むことができる。かわいい犬や水鳥のはにわもお気に入り。

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将軍山古墳は整備されて「将軍山古墳展示館」になっている。
中には石室の内部が復元されており、副葬品とともに横たわる死者の模型が置かれている。なんだかリアルでちょっと怖いぞ。

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はにわ作りを体験できる「はにわの館」もある。
はにわ好きの方はぜひ。

(2006年2月)

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踊るはにわの里江南町(埼玉県江南町)

はにわといえば、やはり「踊るはにわ」を想像する方も多いのではないだろうか。顔といい、ポーズといい、実に親しみのあるはにわ界の人気コンビである。
その「踊るはにわ」のふる里が埼玉県の江南町だ。

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町役場のホールにレプリカがあったり、看板に描かれたりと、町のいたるところで踊るはにわにちなんだものが見られるが、とくに押切橋南公園には大きな踊るはにわのモニュメントがある。

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のどかな田園風景と踊るはにわ。
きっと彼らの時代もこうして田園風景が広がり、大地の恵みに感謝したことであろう。時を越えて甦る喜びの踊り。

(2006年2月)

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愛宕山公園(神奈川県横須賀市)

浦賀港を望む高台にある愛宕山公園。明治24年に開園した横須賀で一番古い公園である。昔は「浦賀園」と呼ばれていたそうで、公園の入口には古い看板が残り、古い歴史を感じさせる。

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公園内には浦賀の歴史を伝える石碑がいくつかあり、こちらは「咸臨丸出航の碑」。咸臨丸はこの浦賀よりアメリカにむかって出航した。裏には乗組員の勝麟太郎(勝海舟)、中浜万次郎(ジョン万次郎)、福沢諭吉らの名前が記されている。日米修好通商百周年記念として昭和35年に建てられたもの。
その咸臨丸出航に際し、修理を担当したのが中島三郎助である。